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2006年05月29日

ガーデニングが楽しくなってきた

ほぼ、ほったらかしにしていたワイルドストロベリー。

去年、実がプランターの中に落ちたのか、
勝手に芽が出てきて、水をやっていたらどんどん大きくなった。

あれよあれよという間に、伸びに伸びて、
実をどんどんつけてくれた。
それが、去年は、1個2個くらいがポツポツだったのが、
今年は、一度に3,4個、多いときは、6,7個収穫できる。

060525.jpg

いつもsolaちゃんがほとんど食べるんだけどね。

赤い実がなってるのって、本当にうれしくなる。

060520.jpg


そして、
しまじろうと付録についてきた おじぎ草が芽を出し、
ちょっとずつ 伸びてきた。
触るとおじぎ するくらいにまでなったので、毎日solaちゃんがいじってる。
060525_2.jpg

これ、種が20粒ほどあったのに、芽が出たのは そのうち5つ。
他のはウンともスンとも言わない。


今日は、予定が急に空いたので、
昼顔を植えることにした。
とりあえず、芽が出るまではプランターに植えて、出そろったら
チューリップの咲いたあとの花壇に植えるつもりだ。


花を咲かす喜びと、収穫の喜びを味わうと、
なかなか止められまへんな〜。
posted by ギャロパン at 01:08| 愛媛 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月28日

殺人的仕事ぶり

先週の木曜日から今週いっぱい土曜日まで、この10日間、
やんちゃぁは松山で仕事だった。
この1週間で、やんちゃぁの仕事ぶりがよくわかった。

単身赴任直前の1年前と今とでは、やんちゃぁの仕事状況が全然違う。
入社した当初は、支店の多くの人が、深夜の2時とか3時まで仕事して、
翌日も普通に朝から仕事をしている、という話を聞いて、
「ウソやろ〜〜。」と思っていたものだ。

単身赴任を始めて だんだんと仕事の帰りが遅くなっていったのだが、
今はまさにはじめのウワサどおり、遅くてハードな仕事ぶりだ。

私は、やんちゃぁの会社の人の間では鬼嫁で通っている。

会社の他の奥さんたちは、旦那様が帰ってくるまで起きていたり、
また、単身赴任の人たちは、毎晩決まった時間に電話をしたりするらしい。

しかし、私は、必要最低限しか電話をしないし、
メールなんかは皆無である。(やんちゃぁは携帯メールの読み方を知らない)
決してマメでなく一匹狼癖の やんちゃぁ的には、それでいいのだけど、
さすがに私も、もう少し気にかけてみようと思い、
1時くらいまで待ってから晩ご飯を作ってあげたり、
2時に帰ってきても起きだして話を聞いたりしてみた。
翌日は やんちゃぁも7時半には出勤するので、
一緒に寝起きをしていると、睡眠時間はせいぜい4,5時間てところだ。

3日間、やんちゃぁと同じ睡眠時間で過ごし、
3日目の朝、起きると同時に激しい吐き気と頭痛とめまいに襲われた。
やんちゃぁを起こさないといけないので、這うようにして部屋まで行って
やんちゃぁを送り出し、その後、なだれ込みで布団に入り眠りなおした。

3日間やっただけで頭も体もフラフラで、仕事に行く気力もわいてこないのに、
やんちゃぁ よくもここまで頑張ったねぇ…。

昨日(…ていうか、今朝か)なんて会社に泊まり込み。
夜ご飯も食べる暇がないとかで、1日1食??!!

死ぬ前に辞めねば・・・。

私はというと、頑張ってつきあった3日間のせいで、その後に影響が及び、
今週は今日まで毎日体もだるいしパワーも出ないし、頭もぼーっとする。
posted by ギャロパン at 00:40| 愛媛 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 愚痴・悩み | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月19日

しきり直し「私の父」

すみません…。
前の記事は、前半の半分が抜けていました。
こちらが全文です。

****************************


今日5月18日は父の命日です。
今年で丸9年かな。

私もHPを立ち上げてから、はや4年、毎年毎年、父の命日にあたり、
父について何かを書きたい、と思うのですが、
ずっと自分の中で父についての考えがまとまらず、
毎年そのことを先送りしていました。

命日に限らず、考えがまとまったら書こうと思っていたけど、
一旦考え出すと涙と言葉があふれて本当に言いたいことが分からなくなってくるので
やっぱり途中で挫折してしまいました。

でも、やっぱり、こういう区切りのときでないと、なかなか真剣に取り組めないので、
今日はうまく書けるかどうか分からないけど、挑戦してみることにします。

まず、父という人は、生前の私にとって、どういう人だったかというと、
厳格で不愛想でエリート、プライドが高くて真面目、分析力があって、理論的、
お堅くて ちょっと近寄りがたい、という感じでした。
今も元気な母は・・・というと、天然過ぎる天然、陽気、お気楽主義、快楽主義、
ずぼら、直感的、ジコチュー…
まさに、陰と陽、正反対な性格の夫婦のようでした。

そんな二人の間で育った子どもは、案外、バランスの取れた子どもになるんです。
基本的には、母親と接する事が多いので、母の影響の方を強く受けていると思いますが、
先天的な性格は、兄弟3人の中で、一番私が父に似ていました。

そうなんです。
以前も書いたけど、私、根は真面目でお堅い、
はっちゃけた(はじけた)事のできない小心者の子どもだったんです。
母があんなんで、兄も弟も陽気人間だったので、
私も自然と見せかけは陽気な人間にはなりましたが。

子どもの頃は、父が家に帰ると、家の中の空気がピンと張りつめて、
その言動に注意を払いました。
家の中で父が笑うことはまずあり得ず、友達の陽気なお父さんのことが
うらやましくて仕方がありませんでした。
たまに話しかけられても、言葉は最小限で切り捨て、
会話らしい会話を楽しんだことがありませんでした。

ただ、子どもながらに、なんとなく、子どもへの接し方が分からないんだなぁと
思っていたので、そのせいで父を嫌う、ということはなかったけど、
とにかく、怖い、という感じでした。

大学に入って、飲み会とか参加するようになり、
夜遅く帰ったりすることがあると、
言葉は少ないけどかなりの迫力でたしなめられたし、
深夜にシャワーを使うなとか、
(片づけのできない母を見て私もそうなっては困ると思ったのか)もっと部屋を片づけろとか、
言われると、一人暮らしで自由を満喫している友達が
すご〜〜〜くうらやましくて、家を出たくてたまりませんでした。

今思えば、父は父なりに、私を素敵な淑女にしたくて、私を守って、
いろいろ言っていたのかと思うのですが、当時はそれが分かりません。
あまりにギュウギュウと押し込められ、そして、
自分を強く主張のできなかった私は、それに反抗したりキレたりすることもできず、
(母親には悪態つくし、キレることは 多々ありましたが)(今も)
臆病で、いつも先の不安を深読みしすぎて新しい分野へのチャレンジを自ら断ってしまうような、
面白みのないホント、真面目な人生でした。
いや、それなりに楽しんではいたけど、
言動に突き抜けることはなかったと思います。

前述のとおり、基本的に陽気な家族なので、陽気な感じで育ってはいましたが、
お堅い道に沿ってお堅いレールに乗って手堅い人生を・・・
いずれ、見合いでもして、適当な人と結婚するんだろうか…
別にそれでもいいか、誰とでも合わせられるしなぁ…
と、結婚に夢も希望もなく(かといって別に絶望もないけど)、淡々と思っていました。

しかし、ある時から私は、生き方も考え方も180度変わりました!
その瞬間瞬間で、自分は何がしたいのか、それを優先して生きよう!と。
やらずに後悔するよりは、やって後悔する方がずっといい。
失敗して笑われることなんて、全然恥ずかしくないし、怖くもない。
人生は経験してナンボ、経験して無駄なことは一切ない、と。

この、「悔いのない生き方」をモットーとし始めた、
その転機は、父の死でした。

それまで、当たり前にいた父が、ある日突然病気を宣告されて
あれよあれよとアッという間に半年ちょっとで亡くなってしまいました。

でも、病気が分かって、
その闘病生活の間に、私と父の関係は劇的に変化しました。

私はまず、仕事を辞めました。
当時はOL3年目でしたが深夜10時11時が当たり前でしたので、
家には寝に帰るだけの状況では、父も母もサポートできない、と思ったので、
自分の身を、とにかく身軽にしたかったのです。

入院して、見舞客が来ると、横でその人たちと父とのやりとりをみて、愕然としました。
家での顔と、外での顔は、まったく違っていたことに。
そこで見る父は、陽気で公明正大で、言葉はハキハキと、喜怒哀楽激しく、
同僚の先生も、教え子たちも、明らかに父を慕って父を頼っていました。
来る人、来る人、楽しいお父さんね、素敵なお父さんね、を連発していたものです。

中でも、興味深い話も聞きました。

私が大学3年の時ホームステイをしたい、と父に言ったとき、
特に私へのアドバイスはなく、英会話のテキストをくれただけだったのですが、
父は影でかなり根回しをしていたそうです。
変な家庭に当たらないように、変な地区にならないように、
学生を連れて何年もホームステイに引率していた父ですから、
そこらへんは熟知していたのです。

私に対しては、家では文句というか、小言ばかりだったのに、
職場では、私は父にとって自慢の娘らしく、誇らしげに私の話をしていた、
という話を、よく聞かされました。

どれもこれも、耳を疑う話ばかりでしたが、みんながみんなそう言うので、
そうだったのか…と、ようやく私も理解し、父への気持ちも少し変わりました。

家での私の見てきた父の姿は、究極のくつろいだ姿だったのです。
誰にも愛想言わず、頑張らず、ブツブツ文句言うことが、気を許している、ということだったのです。

朝も遅くに出勤して残業も少なく、長期休暇も多いゆるい職場かなと思っていたのが、
職場での問題をよく、同僚の人が相談しにきていましたが、
それなりに大変なこともあり、父なりに戦っていたのか、と考えも改めました。

父自身の価値観も、驚くほど変わりました。

病気になる前は、道ばたの草や、街のショーウィンドーや、
喫茶店でコーヒーの飲む時間には全く価値を見いだせなかった父が、
療養中に私と散歩している時、それらのすべてが愛おしい、と、
私にやさしく語ってくれたことがとても印象的でした。

目的もなくのんびりと歩くこと、素敵なお庭を見ながらお茶することに
今までの自分はこんなにも感動しなかった、と。
車の助手席に父を乗せて、家から30分ほどの小さいドライブさえも、
「気分が晴れる〜。心が爽快になる〜。」と喜んでくれました。

正直、父が自分の気持ちをそういう風にストレートに話してくれたり
いつもぶっきらぼうにしか話せない父が、心穏やかに話している姿も初めてで
私は面食らいました。

でも、うれしかった。
初めて父と触れたような気がしました。
私は既に25歳でした。

そのときの、私の父への改めた印象と、父の劇的に変わった価値観を
もっと普通に健康な時からお互い持っていれば、すごくよい親子関係が築けたと思います。
この状態が続けばなぁ…と思いました。

いよいよ悪くなり、母と交代で病室に寝泊まりしていたとき、
もう、気持ちは戦場にいる気持ちでした。

直らない、と頭で分かっていても、気持ちではもしかしたら奇跡が起こるかも・・
もしくは、そんな不吉なことを考えてはダメなんだ、と自分に言い聞かせて、
まるで勝利を信じる終戦間際の日本人のように、
一心不乱に気持ちを常に緊張状態に保ってました。

そうして、その緊張の糸が一気にはじけた瞬間、
涙を流して泣いている兄や弟を目の前にして、あまり涙は出ませんでした。

泣いている周囲を見て、涙もどきは出たけど、
本当に人の死というものを、さっき、数分前まで生きていた人が
死んでしまうというのを、実感として全く理解できていませんでした。

それからは、通夜、葬式、香典返し選びに49日、新盆に みんま(年末の仏さんの正月)、
1周忌、くらいまでは、あっという間に駆け抜けた感じで、
その人を偲んで、改めて父のことを思う、なんてことする暇がないというか、
そういう気持ちがまるで麻酔にかかったみたいに動かなくて、
勝手に自分で封印していたみたいでした。

そして、三回忌の法事のとき、お坊さんがお経を唱えはじめると、
父との闘病生活が一気に頭の中を駆けめぐり、
父が病気を宣告されてみんなの前で初めて涙を流したところから、
父が息を引き取る瞬間までが鮮明に思い出され、
そのときの法事は涙を大量に流しました。

父は、不器用で子どもたちにちゃんと気持ちを伝えられなかったけど、
実は、とても子どものことを心配したり、自慢であったり、かわいがっていたのだと
今となっては理解できます。

そして、父が突然死ではなく、死を宣告されてから少し時間があったこと、
これが、私たちの家族にとって、とても意味のある貴重なものでした。
まるで、神様が私たちの家族のためを思って父を病気にしたかのような…。
だって、それがないままでは、お互いを理解できずに死を迎えることになるからです。
父のために、全力で看病のお手伝いができたことを思えば私は恵まれていました。

突然死でなくてよかった・・・

そして、

人は、いつ死ぬかわからない。

このことは、その後の私の人生に大きな影響を与えたのです。
そう、それで、私は、悔いのない人生を送ることができるように、変わることができたのです。

それからの私は、憶するということは ほとんどなくなりました。
やってみないと分からない、やってナンボ、とちょっとやけくそ気味ではありましたが、
なりふり構わず駆け抜けたのです。



今、ここにきてやっと、私にとっての父の存在、
私が受け継いだ父の遺伝子や性分について、
いつも考えるようになったし、生前(病気発覚前)と比べると、
私の中の父は、より大きなイメージで、より身近になっています。

その分、もし、今、父がいたら、どう言ってくれるだろうか、
父ならどう考えるだろうか、と思うことがよくあるので、
そのときに父の言葉を聞けないことが、とてもとても残念です。

病室で父が言ってました。
「もったいない…。」

自分がここで生命活動を終えてしまうことが…。
これからが油の乗り切った、ともすれば仕事の絶頂期であったのに…。
やっと子どもたちが独立をしはじめ、これから子どもたちの結婚、出産と
めでたいことが続くはずだったのに…。

それからというもの、父親や病気の絡んでくるドキュメントやドラマなどは、
感情がこみ上げる前に勝手にスイッチが入ってしまって、
すぐに号泣モードになってしまいます。

更に、solaちゃんが産まれてからというものは
親の気持ちも分かるし、そのsolaちゃんを父に見せられなかった、という
ちょっとした後悔(というと語弊があるかな)のせいで、
更に更に涙腺ユルユルモードになってしまうのです。


ああ・・・
長く長くつらつらと書きましたが、これを短くまとめろと言われてもまとめられません。
自分の気持ちを整理するために、自己満足で書きましたが、
ここまで読んだ方いましたら、お疲れさまでした。
ご静聴ありがとうございました。

posted by ギャロパン at 21:08| 愛媛 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

長文! タイトル「私の父」

すみません、
PC上で下書きしたものを、ここにコピーするとき
失敗して、半分しか転記してませんでした。
ここは読まずに、次の記事を読んでください。

*******************




この、「悔いのない生き方」をモットーとし始めた、
その転機は、父の死でした。

それまで、当たり前にいた父が、ある日突然病気を宣告されて
あれよあれよとアッという間に半年ちょっとで亡くなってしまいました。

でも、病気が分かって、
その闘病生活の間に、私と父の関係は劇的に変化しました。

私はまず、仕事を辞めました。
当時はOL3年目でしたが深夜10時11時が当たり前でしたので、
家には寝に帰るだけの状況では、父も母もサポートできない、と思ったので、
自分の身を、とにかく身軽にしたかったのです。

入院して、見舞客が来ると、横でその人たちと父とのやりとりをみて、愕然としました。
家での顔と、外での顔は、まったく違っていたことに。
そこで見る父は、陽気で公明正大で、言葉はハキハキと、喜怒哀楽激しく、
同僚の先生も、教え子たちも、明らかに父を慕って父を頼っていました。
来る人、来る人、楽しいお父さんね、素敵なお父さんね、を連発していたものです。

中でも、興味深い話も聞きました。

私が大学3年の時ホームステイをしたい、と父に言ったとき、
特に私へのアドバイスはなく、英会話のテキストをくれただけだったのですが、
父は影でかなり根回しをしていたそうです。
変な家庭に当たらないように、変な地区にならないように、
学生を連れて何年もホームステイに引率していた父ですから、
そこらへんは熟知していたのです。

私に対しては、家では文句というか、小言ばかりだったのに、
職場では、私は父にとって自慢の娘らしく、誇らしげに私の話をしていた、
という話を、よく聞かされました。

どれもこれも、耳を疑う話ばかりでしたが、みんながみんなそう言うので、
そうだったのか…と、ようやく私も理解し、父への気持ちも少し変わりました。

家での私の見てきた父の姿は、究極のくつろいだ姿だったのです。
誰にも愛想言わず、頑張らず、ブツブツ文句言うことが、気を許している、ということだったのです。

朝も遅くに出勤して残業も少なく、長期休暇も多いゆるい職場かなと思っていたのが、
職場での問題をよく、同僚の人が相談しにきていましたが、
それなりに大変なこともあり、父なりに戦っていたのか、と考えも改めました。

父自身の価値観も、驚くほど変わりました。

病気になる前は、道ばたの草や、街のショーウィンドーや、
喫茶店でコーヒーの飲む時間には全く価値を見いだせなかった父が、
療養中に私と散歩している時、それらのすべてが愛おしい、と、
私にやさしく語ってくれたことがとても印象的でした。

目的もなくのんびりと歩くこと、素敵なお庭を見ながらお茶することに
今までの自分はこんなにも感動しなかった、と。
車の助手席に父を乗せて、家から30分ほどの小さいドライブさえも、
「気分が晴れる〜。心が爽快になる〜。」と喜んでくれました。

正直、父が自分の気持ちをそういう風にストレートに話してくれたり
いつもぶっきらぼうにしか話せない父が、心穏やかに話している姿も初めてで
私は面食らいました。

でも、うれしかった。
初めて父と触れたような気がしました。
私は既に25歳でした。

そのときの、私の父への改めた印象と、父の劇的に変わった価値観を
もっと普通に健康な時からお互い持っていれば、すごくよい親子関係が築けたと思います。
この状態が続けばなぁ…と思いました。

いよいよ悪くなり、母と交代で病室に寝泊まりしていたとき、
もう、気持ちは戦場にいる気持ちでした。

直らない、と頭で分かっていても、気持ちではもしかしたら奇跡が起こるかも・・
もしくは、そんな不吉なことを考えてはダメなんだ、と自分に言い聞かせて、
まるで勝利を信じる終戦間際の日本人のように、
一心不乱に気持ちを常に緊張状態に保ってました。

そうして、その緊張の糸が一気にはじけた瞬間、
涙を流して泣いている兄や弟を目の前にして、あまり涙は出ませんでした。

泣いている周囲を見て、涙もどきは出たけど、
本当に人の死というものを、さっき、数分前まで生きていた人が
死んでしまうというのを、実感として全く理解できていませんでした。

それからは、通夜、葬式、香典返し選びに49日、新盆に みんま(年末の仏さんの正月)、
1周忌、くらいまでは、あっという間に駆け抜けた感じで、
その人を偲んで、改めて父のことを思う、なんてことする暇がないというか、
そういう気持ちがまるで麻酔にかかったみたいに動かなくて、
勝手に自分で封印していたみたいでした。

そして、三回忌の法事のとき、お坊さんがお経を唱えはじめると、
父との闘病生活が一気に頭の中を駆けめぐり、
父が病気を宣告されてみんなの前で初めて涙を流したところから、
父が息を引き取る瞬間までが鮮明に思い出され、
そのときの法事は涙を大量に流しました。

父は、不器用で子どもたちにちゃんと気持ちを伝えられなかったけど、
実は、とても子どものことを心配したり、自慢であったり、かわいがっていたのだと
今となっては理解できます。

そして、父が突然死ではなく、死を宣告されてから少し時間があったこと、
これが、私たちの家族にとって、とても意味のある貴重なものでした。
まるで、神様が私たちの家族のためを思って父を病気にしたかのような…。
だって、それがないままでは、お互いを理解できずに死を迎えることになるからです。
父のために、全力で看病のお手伝いができたことを思えば私は恵まれていました。

突然死でなくてよかった・・・

そして、

人は、いつ死ぬかわからない。

このことは、その後の私の人生に大きな影響を与えたのです。
そう、それで、私は、悔いのない人生を送ることができるように、変わることができたのです。

それからの私は、憶するということは ほとんどなくなりました。
やってみないと分からない、やってナンボ、とちょっとやけくそ気味ではありましたが、
なりふり構わず駆け抜けたのです。



今、ここにきてやっと、私にとっての父の存在、
私が受け継いだ父の遺伝子や性分について、
いつも考えるようになったし、生前(病気発覚前)と比べると、
私の中の父は、より大きなイメージで、より身近になっています。

その分、もし、今、父がいたら、どう言ってくれるだろうか、
父ならどう考えるだろうか、と思うことがよくあるので、
そのときに父の言葉を聞けないことが、とてもとても残念です。

病室で父が言ってました。
「もったいない…。」

自分がここで生命活動を終えてしまうことが…。
これからが油の乗り切った、ともすれば仕事の絶頂期であったのに…。
やっと子どもたちが独立をしはじめ、これから子どもたちの結婚、出産と
めでたいことが続くはずだったのに…。

それからというもの、父親や病気の絡んでくるドキュメントやドラマなどは、
感情がこみ上げる前に勝手にスイッチが入ってしまって、
すぐに号泣モードになってしまいます。

更に、solaちゃんが産まれてからというものは
親の気持ちも分かるし、そのsolaちゃんを父に見せられなかった、という
ちょっとした後悔(というと語弊があるかな)のせいで、
更に更に涙腺ユルユルモードになってしまうのです。


ああ・・・
長く長くつらつらと書きましたが、これを短くまとめろと言われてもまとめられません。
自分の気持ちを整理するために、自己満足で書きましたが、
ここまで読んだ方いましたら、お疲れさまでした。
ご静聴ありがとうございました。
posted by ギャロパン at 00:26| 愛媛 ☁| Comment(6) | TrackBack(0) | 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月17日

表彰式

前々回の記事に書いた「母の日」に寄せた
『わたしのお母さん』の絵の表彰式に行ってきました。

日曜日というのに、9時50分には会場に来てください、
と言うので、7時台から起きましたよ。

やんちゃぁは、仕事で松山へ帰っていたのだけど、
前々日は徹夜、前日は深夜1時半まで仕事をしていたので、
「寝たい。」の一言で表彰式に参加するのは却下。
(ちなみに、その深夜1時半に電話で起こされて
車で迎えに来て、と言われて、眠い目こすりながら行きました)

まさかテレビとか来てないよね〜(ニヤニヤ)とか、
もしかして、取材の人とかいたりして〜〜♪なんて気持ちで
会場に向かったのだけど・・・

閑散・・・

まあ当然、休日の朝10時なんか、ギャラリーなんかにゃ関係者以外いないし…
それにしても、フジの人とか もっといてもいいけどなぁ…と思うくらい、
受賞者とその家族以外は誰もいない。

10時を過ぎてやっと、ごそごそ準備が始まり
といっても、長机がひとつ出てたので、
そこに賞状と記念の品が並べられた。

う〜ん、
私は密かに商品券を期待してたんだ〜。

ま、2000円くらいもらえるかなー、
いや、金賞だから、5000円かもなー、なんて
捕らぬ狸も甚だしい。

しかし、その記念の品は、明らかに物であった。

ちょっとガッカリ…?。
いやいや、とっても素敵な記念品がもらえるはず!!
solaちゃんはメダルを期待してました。
「金メダルもらえるかも!!」と興奮気味だったし。

ということで、
期待に胸をふくらませ(?)ながら、表彰式ははじまった。

朝、家で、賞状のもらい方の練習を一応、してきたからね、
ちゃんと返事できるかなー。

solaちゃんの前に何人か、小学生が賞状を受け取っていたので、
それを見て真似できるかなー。

でも、受賞者の家族たちに見守られながら
みんなの前に立つのが恥ずかしかったのか、
solaちゃんは、私のところまで戻ってきたり。

そうして とうとうsolaちゃんの名前が呼ばれました。

シャッターチャンスを…!
もっと顔に近づきたかったけど、遠慮がこんな感じで…。

060514.jpg


会場で待ち時間の15分ほど、
ほぼ、駆け足とジャンプで過ごしたsolaちゃん、
表彰式の緊張からとけたのと合わせて、ぐったり疲れた様子。

さっそく、記念品を開けました。

ペットボトルホルダー・・・・・・・?????

いまどき100円ショップでも買えるがな!
と悪態ついて、1円の買い物もせずに、フジを後にしました。
posted by ギャロパン at 00:00| 愛媛 ☔| Comment(6) | TrackBack(0) | 意見を求む! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月11日

英語の幼児教育にもの申す

先日、松山市の隣町、松前町の公立幼稚園で
外国人を講師とした英語の時間を設ける、というニュースがあった。

まあ、私立なら、もうとっくに幼稚園あげて
英語の時間を作ってるところも珍しくないけど。

小学校からの英語の授業もできるらしいし。

そうでなくても、小さい頃から英会話スクールに通わせる親、
または通わせたい親、もしくは、英語の教材を買う親は多い。

でも、これって日本人が外国人と英語で意志疎通するために、
それほど必要でないと私は思う。

問題なのは、小さい頃から習わせることではなく、
その学習の方法だと思う。

海外で暮らすちびっ子が英語のシャワーを浴びて
英語を習得することを考えれば、
小さい頃から…が、キーワードになってくるように思える。
でも、それは、四六時中英語と触れていないといけないし、
途中で中断すれば、子どもなんて、半年もあればすぐに忘れてしまう。
つまり、小さい頃から英語を身近にしたって、
それをずーーーーっと継続して使わなければ意味はない。

たとえ、3歳児が
「My name is …。」と覚えたところで、
小さい頃歌った童謡と同じように、
意味無く口が勝手に覚えている状態、に過ぎず、
それが大人になって英語をしゃべれるようになることとは違うと思う。

日本に居ながらにして外国で暮らしているような、
同じ環境を作れば、英語を自然と身につけるかもしれない。

でも、それって、日本に住んでいては、ほぼ不可能。
熱心な親が、英語のDVDや教材、または日常会話にも英語を取り入れて
奇跡的に英語習得を達成させる人はまれにいるだろうけど、
99%の親はそこまで徹底してできないだろう。

それに・・・
万が一、英語を小さい頃から継続的に習って修得したとして、
それが、実際外国人と触れあったとき
どこまで親交を深められるかは、英語力というよりは、
その人自身の魅力(考え方や人との接し方)と、
その人の考えたことを表現する力(身振り、表情を含む)
が備わっていないと、結局やっぱりシャイな日本人で終わってしまうのだ。


私は高校時代の英語の成績は、決していいほうではなかった。
父は英語の教師であり、小さい頃から
時々外人と接することがあったにも関わらず、どちらかというと苦手であった。
でも、大学に入って、ビートルズの曲を聴いて歌いたい!と思ったときから
英語に対する気持ちは変わった。

自ら進んで英会話のラジオを聴いたり、
TOEICの通信教育を受けたり(中学生のころ、進研ゼミを取ったものの、
一度として赤ペン先生に返したことのない私が、
毎月毎月、自分で勉強して、半年間、先生に返したのは
自分の中では奇跡に近い)、
父に貸してもらった簡単会話の教材を毎日楽しんでやったことを思えば、
はじめるのに、遅いも早いもないのではないか、と思った。

さらに、それをふまえてホームステイで1ヶ月アメリカに滞在した。

そのとき、使った英語は、文法的にはほとんど中学校時代のものだった。
単語だって、知らなくても別の言葉に言い換えることもできれば、
ジェスチャーや、もしくは、手描きの絵でも伝えることもできる。

そして、一番学んだことは、
とにかく、物怖じしないで、まずは会話をはじめること。

文法が間違っているかも、とか、気にしながら話していては
会話はストップしがちで、なめらかな会話の流れに乗らない。
極端な話、単語の羅列だけでも、通じるものはある。

私は、当時は、真面目に文法を組み立てて、分からない単語を辞書で
いちいち引く、まどろっこしい奴だった。

そのとき一緒に行ったグループの中に、
明らかに他の誰よりも英語力の劣っている女の子がいた。
同じ日本人の中でもその単語力のなさにイラつく人もいた。
でも、彼女は、どこへ行ってもすぐアメリカの人とうち解け、
彼女と接した人はみんな、彼女のことを気に入っていた。

それは、彼女のくったくのない笑顔と、人なつっこさだった。
そして、彼女なりに、一所懸命 単語をしゃべっていた。
それで十分だった。

彼女自身も、英語の勉強は大っきらいと言っていたが、
そのとき、彼女の思うことを十分に伝えられなかった悔しさから、
英語を勉強することを心に誓っていた。

そして、アメリカで学んだもう一つのこと。
それは、常に、自分の意見を持つ、ということであった。
何かにつけ、意見を求められる。
サンドイッチひとつにしたって、パンの種類から、肉の種類、挟む野菜、
チーズの種類にマヨネーズの有無に至るまで、全部自分でチョイスしないといけない。

それだけではない。
日本で何か事件が起これば、それについてどう思うか、
日本の歴史についても尋ねられる。あなたはどう思っているのか。

ホームステイだったけど、簡単な英語の先生がついて毎日スクールに通った。
その時の先生がよく言っていた。
「あなたたちは、私たちが驚くような単語をよく知っているし、
難しい文法を理解できるのに、それが全く会話に活かされていないのは何故??」

そう、私たちは、読解力、リーディングの勉強に重きを置きすぎて、
難しい構文や難しい単語はよくしっているのだけど、
簡単な会話やヒヤリングはほとんど勉強せずに来てしまったので
うまくしゃべれないのだ、と、なけなしの単語でみんなと一緒に答えたものだった。

中学校から大学まで10年前後習った英語は決して無駄でない。
それなりに、役には立っていた。
でも、みんなの前に出ていって、更に自分の意見を慣れない英語でしゃべること、
これは、習う年月とか、英語の成績は関係なかった。

普段から、いかに、自分を持っているか。
自分の意見を表現する術をもっているか。
そして、自分の国のこと、自分の国の文化や、さらには、自分自身を
どれくらいよく知っているか。
これが分かってないと、いくら英語の成績がすばらしくよくても、
いくら小さい頃から習っていても、英語を操る国際人にはなり得ない。

小さい頃からそういう勉強とかお受験的なことを子どもにやらせるのは
あまり感心しない。

小さい頃は、いろんなことを体験して、自然に触れて、
たくさん遊んで、たくさん寝て、いっぱい愛情をもらっていれば
その人間の基礎はできてくる。

そして、小学校に入ってから、ボチボチ自分たちの町のこと、
自分たちの国のこと、そして、自分の意見をまとめる方法を教えてもらい、
ある程度大きくなって興味が出れば、英語に力を入れて学ぶのもよし。
ただし、読解力だけに偏らず、ヒヤリングも会話も。
そのためには、受験の体制も変えないといけない。
リーディングばかりを重視する試験では、英語の授業のあり方も変わらない。
先生と自由に英語で会話する、そんな試験が当たり前になれば、
授業の根本も変わってくる。
そんな授業を受けずに育った先生は苦労するかも。
でも、そんなときこそ、公費を使って、1年くらい留学したらいいんよ。
基礎ができてる英語の先生なら、1年もあればあっという間に英会話習得さ。



そのホームステイから帰ってしばらくは、
私も英語熱が冷めやらず、熱心にいろいろやったものだが、
それもまた、だんだんと離れていくと、英語力もだんだんと衰えていく。

ただ、私の中に、そのスピリッツは残った。
英語に対する恐怖心とか、苦手意識はなくなった。
全盛期の頃と比べたら、今では全然単語力もリスニングも格段に落ちたけど、
話そうとする姿勢は変わらないし、勉強するのも苦ではなく楽しい。




えっと、、
白熱して、すご〜〜く分かった風な口振りで書いてしまったけど、
少なくとも、自分の経験から子どもには焦って英語をやらせなくてよい、
という確信があるので、今solaちゃんが英会話を習っていなくても、
小学校の成績が悪くても、気にしません。

先ほどから何度も、自分の意見を持つ、自分の意見を表現する、と連呼しておりますが、
自分の国を知ることが大事、の中には、
日本人の心、日本人しか理解し得ないわび、さびとか、
皆までいわずとも察するような気質の素敵さも知ることが大事。

そして、何故、多くを語らないことが美徳であるか、
それまでもが英語で表現できれば言うことなし。
なんかそういう、言葉で授業で教えられるものではないんだけど、
日本という国を語るために必要な心意気というか…そういうのを知るためには
日本で生まれて日本で暮らすしかない。
バリバリの帰国子女で、ネイティブ同様に英語をしゃべれる人と差をつけられるとすると、
そこにあるかな。

英語もいいけど、日本をもっと知ろうよ。

posted by ギャロパン at 01:28| 愛媛 ☔| Comment(7) | TrackBack(0) | 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月08日

GWゆるい後半戦

GW終わっちゃいました・…。
今日、会社へ行くと、各方面へ出かけていった人たちから
おみやげ、おみやげ、おみやげの嵐で、
たくさんのお菓子を頂いた。
あーいつも もらってばかりの私。

さて、私たちのGW後半戦は、
まあ、「まったり」でした。

弟夫婦が名古屋から帰省してきて、
一番喜んだのはsolaちゃんでしょう。
普段、父上やママにはしてもらえない楽しい遊びをしてくれるから。

それで、まだ松山城へ登ったことのない若きお嫁さんMちゃんに、
一度は行ってもらおうとみんなで出かけた。

松山城って、松山市民は普段から毎日、毎朝毎晩眺めているので
敢えて登る、というのをあまりしないけど、
たまに登ると、ホント、松山城っていいねー。
また登った日が、最高に晴れていて、松山市が一望できて、
その向こうに瀬戸内海が綺麗に見えて、本当にすがすがしい眺めだった。

あいにく天守閣はまだ修復中で養生シートが張られ
外観はみられなかったけど、中に入ってあの急な階段を上ると、
一気に歴史の風を感じます。
鎧の展示品にはsolaちゃんは少し恐れをなして
途中から抱っこマンになってしまったけど。

城山を登って ひと見物してきたら、ちょうどよいくらいに小腹が空いて、
山の上の広場の茶店で一服することにした。
いままでここの茶店は素通りして、城山を降りてから
ロープウェー通りのあちこちのお店で腹ごなしするのが通例だったけど、
初めてくらい、上の茶店で注文してみた。

メニューを見たときから、ヤリそうな雰囲気は醸し出していたのだが、
頼む品、頼む品、どれもうまい!!

松山城へ行った際は是非、山の上の茶店へどうぞ。
(決して茶店のまわしもんではありません、親戚も働いていません)


やんちゃぁは…というと、
3日は仕事で一日つぶれた。
かろうじて、4,5が休みが取れたけど、
6日(土)は仕事。
もし、5日に岩国のフレンドシップ航空ショーに行くとすると、
その日ハードな山口 日帰り旅行をした後に宇和島へ戻る、
早めに松山に帰ってくるためには、早めに岩国へ向かわねばならない。
となると、朝の5時55分発のフェリーに乗る、
という強硬なスケジュールをこなさねばならない。
今年もフレンドシップに行きたいねーとは言っているけど・…
当日の朝、行くかどうか、起きてから決める、というので、
とりあえず私は、行くつもりの準備をしていた。

4時過ぎに起きて、どうせ朝ご飯を食べない奴ら(solaちゃんとやんちゃぁ)
のためにおにぎりを作ってみた。
水筒に、タオルに、お手拭きに、帽子に、持っていく物を揃えて
さあ起こそう…と5時くらいに やんちゃぁを起こすと…

「今日はやっぱり辞めて、動物園でも行こう…」

と、弱気な発言が出た…。

まあ、大変だったもんね。お仕事…
激務だったもんね…
休みたいもんね…
次の日もハードだもんね…

涙をのんで、諦めました。

すると、急に睡魔が襲ってきて…
再び眠りについた私。

そして、次に目覚めたときはもう、11時近かった。

solaちゃんも やんちゃぁもまだ爆睡中。
こりゃ、動物園も怪しいな…。

しかし、やんちゃぁもよく寝るが、私もホントよく寝る。
寝ても寝ても眠い。
これは絶対に花粉症の薬のせいのハズ!

ま、というわけで、ダラダラと起きてダラダラしていたら
あっという間に2時くらいになって、
とりあえず、本屋さんへ行こう、ということになった。

家から一番近い本屋さんへ車を走らせ、
家族3人めいめいが長い時間あれこれ立ち読みをしていた。
たまたま私が、solaちゃんに弾いて歌える童謡の楽譜がないかなぁと
見ていたら、やんちゃぁがやって来て
「これ練習せんけん。(練習してみたら)」と言って、
“初心者のためのジャズのピアノ練習”
を取り出して、「これ買ってあげる。」 

とな!

「え?!」と一瞬ビックリしたけど、
買ってくれるなら…といろいろ吟味して、
ジャズ、ポップスを弾くためのピアノトレーニング集と、
カフェで流れるジャズピアノ曲集の2冊を買ってもらった。

solaちゃんにも、メイシーの仕掛け絵本と、
クレヨンの仕掛け絵本の2冊を買ってあげていた。

う〜む、珍しい・・・
いつもは「買って。」とねだってくる奴なのに、
「買ってあげる」とは!!
やんちゃぁなりに、どこへもお出かけしなかったことが心苦しいのか…。

しかし、私は正直、ピアノはそんなに得意ではない。
お決まりの決めの1曲か、
もしくは簡単なビートルズの曲。
それしか弾けない。

ジャズなんて弾けるのだろうか…。
やんちゃぁが密かにジャズ好き、というのは知っていたので、
頑張ったら1曲くらい弾けるようになるかなぁ…って
敢えて買ってもらった。…けど。

昨日、ちょっと指の練習をしたけど、
それで既につまずきつつある。

せっかくやんちゃぁが買ってくれたから、頑張ってみるか。


6日は、弟夫婦が名古屋へ帰るので、空港まで送っていった。

余裕を持って早い目に行ったのだが、行ってみると飛行機が2時間遅れ。
といって、どこかへ出かけるほどの余裕もない。
ということで、空港で思いの外 長居をすることになった。

大好きなオジチャン(弟)とオネエチャン(嫁さん)が帰るので、
solaちゃんのテンションも高くなったり急に低くなったり
少々情緒不安定。
結局、午後の大半を空港で過ごした。

翌日もいつもの週末のようにグループホームのおじいちゃんを訪問した。
他に行く宛が あまりなかったので、
solaちゃんがお絵かき教室で描いた母の日の絵を、
松山のフジグランに展示してある、というので、見に行くことにした。

ギャラリーに入って、4〜6歳児のコーナーでsolaちゃんの絵を探すが、
なかなか見つからない。
solaちゃんがどんな絵を描いたか予想もつかなかったので
見逃したかなぁと何度か見直すが、見つからない。

おかしいね、間違えて紛失したのかしら…と、
ふと、別のコーナーを見ていたら、なんと!!

solaちゃんの絵が4〜6歳部門で金賞を取っていた!!

まさか賞があると思っていなかったし、
まさか金賞とれてると夢にも思わなかったので
私もバアチャンも驚いた。

でも、一番驚いたのはsolaちゃん本人だった。
金賞と言ってもピンとこなかったけど、
金メダルよ、と言うと、ようやく理解した。

そして、ジワジワと喜びをかみしめているようで、
後で、お店の人に、自分からふれまわっていた。

ちなみにその母(つまり私)の絵は、ゴジラのような絵だった。

ご褒美に、メルちゃんの何かグッズを買ってあげる、と
バアチャンが提案したもんだから、
solaちゃんは、前々から欲しがっていたけど
高価であるため買ってもらえなかったメルちゃんのお風呂セットを
手に入れることができた。

そして、大喜びでお風呂に入ったのだった。
(あ、このメルちゃんのお話、
ネタとして書こうと思いつつまだ書いてなかった。
近いうちに書きます。)

(オモチャ買い)ついでに、サンリオコーナーでいろいろ物色すると、
本当に飽きない。
なんか、楽しくて、いつまでもあれこれ見てしまう。
と思ったら、閉店の9時まで居座ってしまった。

翌日は仕事&保育園なのに、つい、ダラダラと…。



こんな感じで連休は過ぎ去った。
まあこういう過ごし方もよかろう。


solaちゃんの絵は、14日の母の日まで、
フジグラン松山2Fギャラリーにて飾ってあるので、
行くついでのある人は、見てみてね!

060507_2.jpg
posted by ギャロパン at 23:53| 愛媛 ☁| Comment(8) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月04日

GW前半戦A

さて、

愛南町の立て干し網の開始は11時で、私とsolaちゃんが
会場に到着したのがちょうど11時くらいだった。
臨時駐車場にかろうじて車を停められたが、
そこから会場までは600メートル、
潮干狩りの道具たちを持って会場までsolaちゃんと歩くだけでも
労力を使う。

すでに、かつおフェアの会場は人であふれており、
テレビ局の中継車も来て賑わっていた。
さっと眺めると、どのブースも列で並んでいて、
カツオの試食なんかは長蛇の列。
solaちゃんに、「並んでお刺身食べる?」と聞いたら、
「早く海に行きたい。」と。
まあ、とりあえず、はやる心を抑えるためにも
一度、海まで行ってみよう…。

ということで、まずは立て干し網会場へ向かった。

実は私も潮干狩りは初めてで、
イメージとしては、
海岸の砂浜でボチボチしゃがみながらスコップで掘りながら、
波打ち際で海に入っても遊べる…と思っていた。

が、目に入ったその会場は、見渡す限りため池?沼?って感じ?
所々に潮が引いて砂地が見えるものの、アミを持った人たちが
ドロドロの水の中に入って魚を追いかけている。

かろうじて水の引いているところはゴツゴツとした石が転がっており、
イメージの砂浜の砂をかくのとは全然違う。
060430_1.jpg
(メッチャいやそう)

まあ、天気は晴れ、気温も上がり、
お友達の月さんたちのアドバイスにより、
水につかってもいいように着替えも持ってきたし、
solaちゃんは、水着にTシャツを羽織らせて、
全身濡れてもよい状態にして、早速海へ降りていく。

月さんたちが見つかるかなぁと、キョロキョロしながら
ゴツゴツした石も のけながら、泥をかいていたけど、
とても広い会場で、人もかなり多く、全く出会える予感がしない。

どこをねらって、どのように掘ればいいのか全然検討つかないので、
周りの人の動きを見て、見よう見まねで掘っていた。
しかし、掘っても掘っても、出てくるのはヤドカリと
1cmほどの小さいカニばかり。

30分ほどしてやっと、こんなゴロゴロした石の下になんかいるんかなぁ…と
疑問に思い始め、少し、すねくらいまで水がつかるけど、
真ん中の方まで行ってみよう、とsolaちゃんに提案してみた。
会場真ん中ほどに、鯉のぼりが高々と立っており、
そこ周辺の人たちは熱心に掘っているのをチェックしていたのだ。

だが、solaちゃんは、昔から、汚い泥水が嫌いだった。
保育園でのどろんこ遊びでも、みんなが全身でダイブする中、
小さく足先をちょこん、とつけるのみだったのだ。

でも、大人も子どももみんな水の中に入って、掘っている。
それにつられてsolaちゃんも入るかなぁと思ったのだけど、
やはり、水の中に入るのを嫌がった。
深くないことをアピールして、私が先に進んでみたが、ダメだった。
鯉のぼりの下まで行ってみよう、と誘ったけど、ダメだった。

しょうがない・・・一度 陸へ上がって、
かつお会場を見て回って、氷でも食べさせたら気分転換になるかなぁと思い、
クルッと方向転換をし始めたとき、放送が流れた。

「潮干狩りのお客様、アサリは、鯉のぼり周辺にまいています。」

!!!

まさに、今、向かっているところです!
会場のみんなが集まってしまう!
早く行かねば!

と1人で焦ったのに、solaちゃんは もうかなり弱気。
あがりたい、あがりたい、と言うので、
仕方なしにみんなの向かう方向とは逆の方向へ向かって
すごすごと陸へあがった。

まあ、人が集まって混雑してきたら、
私は潮干狩りの砂堀の道具と、発泡スチロールのバッグと、
貴重品のバッグを手にして、更に、solaちゃんから目を離さずに掘る、
という芸当をやってのける自信がなかったので、まあいっか、という気持ちだった。

陸に上がって、水で泥を流し、
はじめに見つけた氷屋で氷とポテトを食べたら
二人ともかなり落ち着いた。

もう、このまま陸で、カツオフェアの会場で過ごすか…と
またsolaちゃんに提案してみると、
元気の出たsolaちゃんは、今度こそ鯉のぼりのところまで行ってみる!
とやる気を出した。

正直、大荷物を持って海へ入り、あがってから泥を落とすのに
水道で並ぶのも結構面倒だったので、そのままカツオ会場にいたかった。

でも、せっかく潮干狩りに来て、貝を一個も取ってないって
入場料500円もしたのに、もったいない、という気持ちも働き、
再びsolaちゃんと二人で潮干狩りに挑んだ。

1時間ほどの休憩の間に、
潮はすっかり引いて、一面、干潟になって、
鯉のぼりまですっかり砂地が見えていた。
それに更に気をよくしたsolaちゃんは、
すぐにでも駆けていって、鯉のぼりのところまでたどり着けると思った。
私もそう思っていた。

砂地・…

と思っていたけど、行ってみたら完全に泥だった。

あのゴツゴツとした石のところなんか、貝がいるわけない。

やはり、やわらか〜〜い泥の中に貝がいるのが普通だ、と
泥の中に足を入れて、初めて理解した。

本当にニュルニュルで、一度足を入れるとズッポリと足を取られ、
二歩目の足を出すのに苦労する。
後ろ足を泥から抜いたと思ったら、それに合わせて
ドロドロの泥が周りに跳ねて散って、足の上の方にも服にも着く。



これか〜〜〜〜


月さん夫婦がアドバイスしてくれていた汚れる、という泥は。
こりゃ、帰りは本当に全身泥だらけだな、
足がかなり泥に取られるけど、solaちゃんこけて全身泥まみれになったら
やっかいだな、とか考えていた。

二人で頑張って鯉のぼりまで近づこうといしていたが、
案の定(?)solaちゃんの弱音が出た。
「ママ、やっぱりやめる!もうあがろう!」

ええええぇぇぇぇ・・・


面倒だったのに、せっかくやる気を出して泥に入ったというのに、
もう少しで鯉のぼりにたどり着けるというのに
こんな中途半端でやめるのぉ?
せっかく汚したんだから、意地でも貝を取ってやる!と、
solaちゃんの説得に時間をかけたのだが、
すっかり及び腰になってしまったsolaちゃんを引き戻すのは
もう不可能だった。

更に、「いっちゃんは?」(一緒に行くことになっていた月さんとこのお友達)
「いっちゃんと会えんのやったら、ここに来た意味ないやん!」とまでのたまう。
「いっちゃん探して〜〜。」
と言うので、
それなら、確実に鯉のぼり周辺にいるはずだから、
やっぱり鯉のぼりに行ってみよう、と再び説得したのだが、
それはイヤらしい。

大荷物を持って、暑い日差しに照らされて、solaちゃんの機嫌も悪くなり、
昨日も寝不足気味だった私は、腹をくくり、
まあ、solaちゃんが泥を嫌がることを少し想定をしていたので、
一個も収穫なし、で帰って、話のネタにするのもいいかな、と思い、
とうとう引き上げることにした。

060430_2.jpg
(鯉のぼりに最も近づいた瞬間)

今度は、泥を洗い流す洗い場でも列ができ、
自分の番が来ても、後ろの人の目線が気になって、
存分に洗い流すことのできなかった小心者の私。
グズグズの靴のまま、洗い場を後にした。

今度は、カツオ会場に挑もうと思ったが、
朝見たときよりも更に人は増え、
人がごったがえしていたのを見て、
人混みの嫌いな私はすっかり気後れしてしまい、
大荷物を持っていたし、かなり疲れていたのもあって
結局カツオフェアの会場には一歩も足を踏み入れることなく帰途についた。

まだ早い時間に切り上げたので、
宇和島へ戻ってやんちゃぁと食事でもしようかと思ったが、
やんちゃぁの仕事は結局、夜までかかることが判明し、
なんだかどっと疲れた私は、松山に帰ることにした。

高速に乗ってもよかったけど、
まだ時間はたっぷりあったし、南予方面は下道も結構好きなので、
そのままチンタラと国道を帰ることにした。

社会人になって自分の車を手に入れてからというもの、
毎年南予方面には何度も遊びに行っていたので、
南予には思い入れがある。

帰りながら、ちょうど、夕日の時間帯にさしかかることを思い出し、
大洲から山中のは国道を反れ、
昔よく通った海岸沿いの通り、長浜から夕日で有名な双海(ふたみ)までの道を
走ることに決めた。

長浜から双海の海岸線・・・

っくーーー!
これこそ私の青春時代!
なにか事あるたびによく通った思い出たっぷりの道。
運転しながらでも、本当に視界が開けて美しい海が見えて、
海を見ながらずーーーっと走れる、本当に大好きな道。
愛南町での疲れが急に吹っ飛んで、元気が出てきた。

確か、最後に来たのは、結婚前にやんちゃぁとブレードをしに来たときだ。

そんな話をsolaちゃんにしてあげると
「ママと父上がつきあっとったとき?」なんて聞いてくる。
「つきあっとる、ってそんな言葉よく知っとるねぇ。」と言うと、
「それぐらい、知っとるわい。」とませた口振りもおもしろい。

眠気も出てきたので、ふたみシーサイド道の駅へ寄ってくことにした。

それが まーーーなんと美しい海!
数時間前のドロドロの水とはうってかわって、とても澄んでいる。
砂浜も白くてサラサラ。
どこでもドカッと腰を下ろせる。
060430_3.jpg

昼にポテトと氷しか食べていなかったので、
そこで夕食をとり、砂浜で大はしゃぎのsolaちゃんの写真を撮りまくった。
砂に目をやると、小さいけどかわいい貝殻がたくさんあって、
また、すごくさわり心地のいい細かい砂のエリアがあって、
そこの砂をいつまでもいつまでも触り続けているsolaちゃんは、
その砂をどうしても持って帰りたい!と言うので、
ちょうど、一個も取れなかった潮干狩りの道具を使って
サラサラの砂をちょっと持ち帰ることにした。
役に立ったじゃん、潮干狩りの道具!

夕日がだんだん降りてきて、オレンジ色になってきて、
いい色になってきたころ、ふと周りを見ると、
カップル カップル カップル カップル・・・・

ああ、そうだった、そうだった。
これからは恋人たちの時間だわ。

夕日が沈む前に私たちは引き上げることにした。
060430_4.jpg

すっかりと心の洗濯をして気持ちが晴れやかになったsolaちゃんは、
今日は楽しかった、楽しかった、を連発している。
「何が一番楽しかった?」と聞くと、「砂。」だって。
愛媛県の端の愛南町まで行ったあの苦労は・…?!!

でもとにかく、ご機嫌になって帰れたのはよかった。


8時前にマンションに着き、一息入れてから
マンションのゴミ捨てに行くと、月さん一家も帰ってきた。
私が携帯を忘れていたことが伝わっていたか聞くと、
残念ながら、伝言の手紙を読まずに出発していた。

きっと、何度も私の携帯に電話したに違いない。
もう申し訳なくて、平謝りだった。


翌日は仕事だし、疲れたから早く寝ようと風呂を入れているとき、
なんと月さん一家が大量に取れたアサリを
これまた大量におすそわけしに来てくれた!!

ありがとーーー!
もう、涙ちょちょぎれもんっす。(ちょちょぎれって古い?)

私の使命を受けて、伝言の手紙をポストに入れてくれた
もう1人のお友達にもおすそわけの おすそわけを配り、
それでも結構な量ありました。

翌日、酒蒸しバターとみそ汁にしたけど、
大量の酒蒸しを、solaちゃんはあっという間にペロリと平らげました。

「solaちゃん、来年、また潮干狩りに行く?」
否定されるもんと思いながら聞くと、
「行きたい。」だって。

後で、月さん家の潮干狩りの様子をHPで見ると、
私たちとはうって変わって、アサリ取りもカツオフェアも
存分に満喫していて驚きの連続だった。

まあいいや…
来年、行けたら今年を教訓に・…。
まずは、絶対に携帯は忘れてはいけない。(基本?!)
とにかくまあ、ハチャメチャな二日だった。
posted by ギャロパン at 04:04| 愛媛 ☀| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月02日

GW前半戦@

29日の土曜日から やんちゃぁのいる宇和島へ行って来た。
というのも、30日の日曜日に、宇和島からさらに60kmほど
南下した愛南町というところで、立て干し網漁とマグロ祭りへ行こうと
友達家族に誘われたので。

立て干し網と言われてもいまいちピンとこなかったけど、
要は、海を網で仕切って、大きい海の生け簀を作った感じ(?)で、
そこへドカドカと入っていき、アミを持った人たちは鯛やハマチを取り、
アミを持たない人は、潮干狩りでアサリを探す、というもの。

以前から、潮干狩りはしたいなぁと思っていたし、
やんちゃぁも仕事がハードなので、海でも行ってのんびりしたい、
というので、初めてながらも私たち家族もそれなりに張り切っていた。

お友達の月さん夫婦から、アドバイスをいただき、
服装から、持っていく物から、取り方のコツまで伝授していただき、
当日も一緒に取ることになっていた。

しかし・・・


大失態をしてしまった私。

私たちは、前日から宇和島へ行き、翌朝 愛南町へ向かい、
月さん家族は当日の朝、松山から出発し、現地で落ち合うことになっていた。

が、

宇和島へ行く日、なんだか準備やなんやかやで出発時間が遅くなり、
バタバタと家を出て、松山の市議会選挙の期日前投票も済ませ、
高速を乗らずに下道(したみち)でタラタラと向かった。

と、突然、出発してから小一時間経ったあたりで、
自宅に携帯を忘れてきたことを思い出した。
連絡を取り合うし、と思って充電していたのだった。

やっとR56の市内の渋滞を抜け、いい気分で軽快に走り初めたところ
だったので、そこから自宅に戻る気力は沸いてこなかった。

高速を通れば、1時間ちょいで行けるところを、
今回は国道の下道でちんたら走り、その道中も楽しもうとした。
道の駅へ寄ったり、景色を楽しんで、たっぷり3時間半かけて
宇和島へ行った。

・・・やんちゃぁは仕事だった。
翌日も仕事で、立て干し網漁へは行けなくなった。
しかも、私は携帯を忘れている。
…イヤな予感はしたが、まあ、とりあえず行くと決めたのだから楽しまなきゃ。

その前に、


やんちゃぁの今回入ったアパートは、元フィットネスクラブのスタジオを
改装して区切ってマンション風にリフォームしていたのだったが、
やっかいなことに、マンションのオートロックがついていた。

オートロックいいじゃん?

いえいえ・・・

このオートロック、暗証番号とかお部屋にピンポンならして開けてもらう、とか
できないっす。
鍵のみでしか開かない・・・
つまり、私とsolaちゃんがお部屋に入って待っていても、
後から仕事を終えて帰ってくるやんちゃぁのために、
私は1階まで降りて、アパートのエントランスを開けてあげないといけない。

しかし、やんちゃぁは いつ仕事が終わるか分からない。
仕事が終わったら携帯に連絡くれたら・・・・

ガガーーン!!

携帯を忘れたという致命的なミスを犯した私…。
会社の余っている携帯を臨時に一晩かしてもらうことで どうにか収まった。

いや、まだ問題はある。

明日の立て干し網のとき、携帯で連絡取り合って会いましょう、となっていた月さん家族に、私が携帯を忘れたことをどうしても伝えなければならない。

104で月さんの自宅の番号を問い合わせると、該当なし、と言われた。
最後の手段、同じマンションの別のお友達の家を104で聞き出し、
その子に伝言メモを郵便受けに入れてもらうようお願いした。
翌朝の出発までにメモを見てくれたらいいんだけど…。

ま、それは運を天に任せてと、
私とsolaちゃんは、二人で地元のラーメン屋で食べ、
地味にシャワー浴びて地味に(?)寝ていた。
予定では、やんちゃぁはAM1時くらいに帰ると言っていた。
11時くらいには寝付いていた私だったが、
やんちゃぁからの携帯連絡を聞き逃してはならない、と思って
何度も何度も目が覚めて、着信がないかどうか確かめた。
しかし、2時になっても3時になってもかかってこない。
とうとう4時が過ぎた。
おかしいなぁ・・と思ったけど、またウトウトしていたら、
やっと4時50分くらいに携帯が鳴った!

よし!!

と張り切って電話に出たら、「もう1時間くらい鳴らしとんやけど。」と、
半ギレで言われた。

ああああああ・・

おかしい、何度も目が覚めるほど、浅い眠りだったのに!おかしい!
と思ったら、どうやら、留守録設定になっていたようで、
携帯が鳴らずに勝手に留守番電話サービスになっていたそうな・・・。
留守録が30件を越えて、やっと、携帯の音が鳴った。
そのせいで、1時間も睡眠時間の削られたやんちゃぁ…。

なんだかんだでAM5時過ぎにやんちゃぁは帰ってきた。
翌日(てゆーか、当日なんだけどね)も日曜日にもかかわらず、
朝の9時には家を出てお仕事。
4月以降、まだ1日も休めていないやんちゃぁ。
3日くらい前には、寝不足で事故ったらしいし。(怪我は幸いかすり傷)

あまりに気の毒で、かわいそうで、やっと1年半定着した仕事だったけど、
「もう、辞めてもいいよ。」と、思わず【辞めてよし宣言】を出してしまった。
仕事のせいで体壊したり事故で死んだりする前に辞めないとね。
でも やんちゃぁはいろいろ思うところがあって、すぐには辞められないんだと。

で、浅い眠りで寝不足気味のまま、翌朝 愛南町へ目指した。

宇和島よりさらに南へ伸びる道って、なんか好きなんよね〜。
南国って感じもでてくるし、風景もきれい、海も素敵、渋滞を除けば
素敵なドライブだった。


つづく・・・





posted by ギャロパン at 00:43| 愛媛 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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